| 初代勘三郎についてはいくつかのエピソードが語り伝えられています。寛永九年(1632)、幕府が御用船として建造した安宅丸(あたけまる)という巨船が動かなかったのを、勘三郎が船の舳(へ)先に立って金の采配を振り、得意の船歌を歌い音頭を取って水夫(かこ)を励まし、伊豆の下田から江戸湊へ入津させることに成功しました。その褒美として幕府から金の麾(ざい)・陣羽織・船覆いの黒と白に染め分けた幕を拝領します。明暦三年に、倅をともなって上京した勘三郎は、御所へ召されて『猿若』を演じました。この時の褒美として黒のビロウドに三つ柏の紋が付いている羽織を拝領し、倅は明石(あかし)という名を賜りました。感激した勘三郎は、金の麾と陣羽織を中村家の重宝として大切に扱い、座元を相続する勘三郎の代々に伝えることにしました。 |
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| 中村座では、芝居創始の寛永元年から数えて百年、百五十年、二百年といった記念、または座元が交替した時など節目節目に当たる興行の時、この重宝を観客に披露し、座の権威を広く宣伝します。そして、必ず江戸第一の名家である市川團十郎が駆けつけて口上を述べるのを例にしていました。拝領した二色の船覆い幕をヒントにして紺・柿・白の段幕を拵え、これを狂言幕として使用しました。歌舞伎の定式幕の原型です。平成中村座が一般の劇場の定式幕−黒・柿・萌葱−ではなく、あえて黒・柿・白の幕を使うのは、昔の中村座の狂言幕にならっているわけです。加えて初代勘三郎が得意にした放れ狂言時代の『猿若』『新発知』『門松』『釣狐』の四番を「寿狂言」として伝承し、これも節目の時には必ず上演する慣習にしました。他にやはり祝言用の脇狂言に『酒呑童子』があります。 |
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| 中村座のあった場所は、創設した時の中橋南地から弥宜町(ねぎまち)に転じ、さらに、慶安四年(1651)に堺町(現在の中央区日本橋芳町二丁目・人形町三丁目)へ移りました。これ以後、天保十三年(1842)に浅草猿若町へ移転を命じられるまで、200年間を通じて堺町にありました。天保の改革で強制的に江戸三座が移転させられた時、浅草寺の裏手の移転先はもと武家地で町名がなかったので、幕府は「猿若町」と名づけ、その一丁目を中村座の興行地としました。「猿若」の縁起、江戸歌舞伎の中心たる中村座の伝統的な権威を幕府が認めて尊重した結果に他なりません。 |
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