『歌舞伎座の意匠について』
東京藝術大学教授 吉田五十八
 この前の歌舞伎座は当時東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授であつた岡田信一郎先生の傑作でありまして、大正十四年一月華々しく開場式を挙げた時などは、その豪華さにさすがの東京人も驚嘆したものでありました。それから二十五年の歳月が経た今日、はしなくも同じ学校で教鞭をとる私が、先生の傑作の戦災復興工事の設計を担当することになつた事は奇しき因縁と云ふ外は御座いません。この岡田先生の傑作を出来うる限りあの華かな立派な昔の姿に返へさうと苦心は致しましたが、何せ終戦後のことゝて建材資材思ふにまかせず、それに更に困つたことは二十五年前の建築と云へば四分の一世紀前の設計でありますから、当時はいかほど名建築であつても、今日の進んだ建築技術から見れば不備の点が沢山にありまして、これも出来るだけ修正致しましたが、尚力及ばざる処が沢山に御座います。先づ構造の主体が昔のまゝであります上、戦災で脆弱になつたところを補強したゝめ、座席の柱がばかに太くなつて仕舞たり、廊下の天井が低くなり過ぎたり、二階桟敷(ギャラリー)を支へて居る鉄柱が取りきれず、昔ながらに残つて居たりして、皆さまにも不愉快の感じをお与へする個所が沢山にあると思ひますが、これも俗に云ふ「古家の雑作」の常として何卒御許しを乞ひたいと存じます。
 外観は戦災前のものを皆さまは詳しくは御記憶はないと思ひますが、正面は殆ど前のまゝこれを補修致しましたが、観客席と舞台の屋根はこれを平屋根(フラットル−フ)に致しまして、近代感覚と藤原桃山時代の優雅な味とを持たしたつもりで御座います。又玄関ホールは古来よりの日本建築の表現をもつ外観に対して甚だしく不調和にならない程度の近代性と時代性をもたせ、又色彩は日本味豊かな古代色を基調と致し、従てホールとしての雰囲気は濃朱の漆の丸柱と、び間の金霞の西陣織と、壁面の豪華なつゞれの錦と、天平時代の鳳凰の緋の絨毯との階調は、天井の間接照明によつて明るく華やかに浮出され、幕間の休憩の一時などは一大社交倶楽部の姿と化することゝ存じます。又ホ−ル二階は左右に喫煙室をしつらへて休憩時間を快適に致し、それに錦上更に花を添へる意味で、劇場として未だかつて企て得なかつた芸術院会員のみの画廊が現出したのであります。これは大觀、玉堂、栖鳳を初め我国当代の芸術の最高峰のみを集め、さながら常設の最高の展覧会場の観を呈することゝ存じますが、また幕間の皆さまに芝居と別の意味での眼の保養をして頂けることゝ存じます。次は観客席のことに移りますが、由来歌舞伎劇の劇場は例外なく全部が全部、格天井であることは皆さまも御記憶があると思います。この前の歌舞伎座もその例にもれず格天井でありましたが、この度は前例を破て豪壮な吹寄竿縁天井としまして舞台から一幕見の席まで尾州檜の通し天井と致しました。そのために音響的には戦災前より数段とその音響効果が改善されました上、二本の竿縁の間に間接照明と夏冬の冷暖房とが装置されて居りますから、日本的雰囲気の内に文化的設備が巧妙に隠されて装置してあることは、格天井の時との時代差を如実に現はしたものと存じます。その他舞台に対しての照明は、歌舞伎劇は勿論、新劇、歌劇を標準と致しまして、照明室を左右後の六個所(映写室も完備)に設け、三階にスポットライトを数十個並列して照明陣に万全を期してあります。舞台正面(プロセニアムアーチ)は巾九十一尺、高二十一尺の大舞台で周囲は尾州檜を使用して昔ながらの豪華な檜舞台を現出して居ります。又上部の大欄間には西陣苦心の特種織物が張られ、その後に隠された拡声機からは舞台の名ゼリフが皆さまの御耳に達することゝ存じます。また周囲の壁面は最新の吸音材料によつて音響的効果が考へられて居り、それを更に日本的文様に依て美化されてあります。その他各階食堂は各室ともその性格によつて意匠をかへ、或は近代的に、或は東洋的に或は日本的にそれぞれ変化をつけて居り、その食事に対する特異性を意匠色彩によつて変化を付けてあります。
 尚このほか、舞台関係、電気、冷暖房等に関しては木村武一氏が述べられます故こゝには省略致します。